天皇は必要ないのでは?と思っていた私が考えを改めた理由

f:id:tom0e:20201129043453j:plain

以前は、天皇制を廃止してもとくに問題はないのでは?と考えていました。

そもそも、義務教育で日本国憲法について学ぶとき「天皇は日本国民の象徴」と習うじゃないですか?

わたしは当時から、ただの象徴でしかないなら存在する意味あるの?と思っていたんですよね。

天皇制に反対まではしませんでしたが、ただの特権階級ならなくなってもいいのでは?と思っていました。

天皇に対しては、何の感情も抱いていませんでした。

私のような日本人は、少なくないのではないでしょうか?

わたしが考えを変えた3つの理由

それが、以下の3つの事実を知ってから、天皇に対する見方がすっかり変わりましたね。

・台湾統治時代の台湾人に対する天皇の心づかい

GHQの最高司令官であるマッカーサーに対する、昭和天皇の言葉

・皇室の全財産を投げ打って国民を救おうとした天皇

 

この3つの事実を知って、天皇はすばらしい存在だと思うようになりましたし、廃止してはいけないと思うようになりました。

それでは、この3つを順番に説明していきたいと思います。

台湾人への天皇の心づかい

日本が台湾を統治していた時代に、台湾の中北部を大地震が襲いました(新竹・台中地震:1935年4月21日に発生)。

この地震での死者は3,000人以上で、多くの家屋が倒壊しました。

このときに、昭和天皇は台湾に入江侍従(天皇の身のまわりの世話をしていた人)をつかわせました。

入江侍従は、被災地の民家を一軒ずつ訪問し、被災した度合いによって昭和天皇からのお見舞い金を差し上げました。

たとえば家が半壊した者には5円、家が全壊した者には10円というように。

 

『台湾人と日本精神』という本で、蔡焜燦(さい・こんさん)氏は、このときのエピソードを紹介しています。

蔡焜燦氏の母親は、この地震で軽症を負ったため、1円札をお見舞い金としてもらいました。

しかし蔡焜燦氏の父親は、このときの1円札を額に入れ、使わずに台湾式仏壇の壁にかけていたそうです。

蔡焜燦氏の父親は、日本が台湾を統治する以前に生まれたので、天皇を崇拝するような教育は受けていません。

しかし、台湾の人々に対する天皇の愛情を知り、自然と天皇に対して敬愛の念を抱いたのです。

 

当時、欧米諸国の植民地では、欧米の国王がこんなふうに植民地の人々を気にかけることはありませんでした。

なぜなら欧米諸国にとって、植民地とは搾取の対象でしかなかったからです。

しかし天皇は、日本が統治している国の人々をも、同じ日本国民として大切に思っていました。

その気持ちが台湾の人々にも通じ、天皇は自然と人々の尊敬を得ていたのです。

天皇が日本人から敬愛されていた理由は、これと同じことだと思います。

天皇が常に国民の幸福と繁栄を気にかけていたからこそ、国民は自然と天皇を敬愛するようになったのではないでしょうか?

マッカーサーを訪れた昭和天皇

f:id:tom0e:20201129041101j:plain

マッカーサー昭和天皇のエピソードは有名なので、知っている人も多いと思います。

日本の敗戦後、1945年9月27日に、昭和天皇は1人の通訳をつれてマッカーサーのもとを訪れました。

マッカーサーは、敗戦国の多くの国王と同じように、天皇が命乞いに来たと思っていました。

しかし昭和天皇は、以下のような趣旨のことを述べました。

「戦争の全責任は私1人にあります。すべての戦争行為は、天皇の名のもとに行われたものなので、軍人や官僚は一切悪くありません。

国民が助かるのであれば、私の身はどうなってもかまいません。

今後、どうか国民が飢えに苦しむことのないように、それだけはお願いします」

マッカーサーは、昭和天皇の言葉に驚きと感動を隠せず、後に『マッカーサー回顧録』にこう記しています。

大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。

私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った。

 

戦争は天皇の責任ではありませんし、マッカーサーは日本が戦争を始めたのは自衛のためだったと証言しています。

それにも関わらず、昭和天皇は日本国民が救われるなら、自分1人が全責任を負って死んでもかまわないと思っていたのです。

国民を飢えから守るために財産目録を差し出した天皇

さらに同年の12月、昭和天皇は当時の農林大臣であった松村謙三氏に、皇室の財産目録を渡してこう言いました。

「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい。これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を1日でもしのぐようにしたい」

 

そこで、当時の首相であった幣原(しではら)首相は、マッカーサーを訪ねて皇室の財産目録を差し出しました。

マッカーサーは、天皇のお気持ちに感銘を受けて、

「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」
と請け合いました。

松村謙三氏は、著書『三代回顧録』にこう記しています。

これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ちに打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……〟というのだ。

……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった。

 

このように、天皇は戦後、ご自身の命と財産を投げ打ってでも国民を救おうとしたのです。

そのおかげで、日本は多数の餓死者を出さずにすみました。

人は言葉では嘘をつけますが、行動では嘘はつけません。

いまだに昭和天皇をバッシングする左派の連中もいますが、どこの国の国王がこれほどまでに国民のことを気にかけ、行動で示せるでしょうか?

天皇は日本国民にとって精神的な支えとなる存在

これらのことを知って、わたしは天皇に敬意を抱くと同時に、なくてはならない存在だと思うようになりました。

天皇と日本人は、支配する者とされる者という関係ではなく、本来は親と子どものような関係であったと思います。

そして、天皇が存在することが日本人の心の支えになっていた。

天皇は、日本人のアイデンティティの一部だったのです。

 

しかし、現在のマスコミではこのようなエピソードは報道されませんし、学校教育でも習いません。

少なくともマッカーサーとのエピソードは、学校教育で取り入れるべきだと思います。

戦後、天皇崇拝につながる教育はいけないという風潮が生まれましたが、こういったエピソードを教えるのは崇拝うんぬんの問題ではなく、大切な事実を教えるか教えないかの問題です。

これをあえて教えない現在の教育には、疑問を感じますね。

こんなに大切なことを多くの国民は知りませんし、わたしもネットで事実を知るまでは知りませんでした。

戦後、全国を訪問した昭和天皇

昭和天皇の全国訪問

昭和天皇の全国訪問の様子

戦後、昭和天皇は、国民をなぐさめ励ますために全国を訪問しました。

戦後の混乱期に全国を訪問することは、天皇にも身の危険がありました。

共産主義者たちが天皇に対してテロ行為を起こす恐れもあり、全国訪問に反対する声も上がりました。

しかし、昭和天皇は国民を勇気づけられるのは自分しかいないと、全国訪問を決行したのです。

インフラや宿泊施設すら整っていない場所もあり、昭和天皇は寝台や入浴施設もない電車の中や、学校の教室で宿泊したこともありました。

そんなときも天皇は、

「戦災の国民のことを考えればなんでもない。10日間くらい風呂に入らなくてもかまわぬ」

と、少しも気にしませんでした。

天皇にとっては、自分の身の安全や快適さよりも、日本国民を勇気づけることのほうが大切だったのです。

戦後、焼け野原となった日本が経済大国になったのは、さまざまな偶然と幸運が重なったこともありますが、天皇が国民の心の大きな支えとなったことも大きいと思います。

まとめ

神武天皇

神武天皇

戦前の日本では、天皇天照大神の孫である「神武天皇」の末裔だとされていました。

つまり、神の子孫である天皇が、国民を守っているという共通認識がありました。

だから日本は「神国」と呼ばれていましたし、国民にも、日本は神が守っている国だという意識がありました。

それが日本国民のアイデンティティであり、精神の支えであり、強さだったのです。

戦後、日本人は教育とマスコミによる洗脳でアイデンティティを失い、精神的なつながりを切り離され、大切なものを忘れてしまったように思います。

 

憲法も、GHQが書いただけのことはあり、やはりおかしい。

学校で憲法について学んだとき、天皇は国民の「象徴」であるというところに、重要だということで下線を引かされたことを覚えています。

あほな教育を受けさせられたことに対して、怒りさえ感じますね。

明らかに天皇という存在は、単に日本国民の象徴というだけの存在ではなく、日本人にとってそれ以上の存在ではないでしょうか?